水はタダではなかった、という話

コラム

水はタダではなかった、という話

柊クイチ [2012/4/30]

「日本人は、水と安全はタダだと思っている」――イザヤ・ベンダサンが著書『日本人とユダヤ人』で述べたという有名な言葉ですが、これを最初聞いた時、確か私は中学生くらいでした。

当時は水道代などは全く頭になく、私自身親の庇護下にあったので、安全と言われてもどうもぴんとこなかったことを覚えています。
このイザヤ・ベンダサンはペンネームであり、本名は山本七平というらしく、批判や諸説あるようですが、とりあえずこの一文においては的を射ているような気がします。

独り暮らしを始めて自分で水道代を払うようになってから、水が無料ではないことこそ実感しましたが、水道のある環境自体――つまり『水が蛇口を捻れば出る』というのが前提の考えとなっていることに気付いたからです。

東京の水道の歴史を紐解いてみると、その始まりは1590年、実に400年以上も前から始まっていたとのことで、とても驚きました。
良質な水の確保を目的として始まったようなのですが、現代を見ていると目の付け所としてとても鋭く、先を見据えたものだったのだなあと思います。
近代水道の始まりは明治時代。そして現代は、人が住んでいる地域で水道設備が整っていない場所を探す方が、難しいのではないでしょうか。

何でこんなことを思い出したかというと、東日本大震災から一年以上が経過したんだなあ……としみじみ考えたことがきっかけです。
あの時私が住んでいる場所は幸いにも断水、停電などは起きませんでしたが、スーパーから飲料水や食料品は消え、交通機関は一時的に麻痺状態、親戚や知り合いの安否を気遣うなど、大きな混乱がありました。

テレビでは連日悲惨な映像が流れ続け、何て大変なことが起こってしまったんだろう、この先どうなるんだろう、という不安が日本中に広まっていた時期でした。
そして被災地の惨状を見るにつけ、当たり前のように電気を使ったり、ましてや水を盛大に出してシャワー、というのも何となく『いいのかな……』という気分にもなりました。電気よりは目に見えるだけに、余計に。

そして原発の事故以来、水はもはや無料とは言えないものになりました。特に小さなお子さんがいる家庭では、飲料水は全てペットボトルに切り替えた、という話をよく聞きます。

徐々に震災前の風景に町は戻ってきていますが、『あって当たり前』とは思わないようにしないと、自らを戒める日々です。